全日本きもの研究会 ゆうきくんの言いたい放題
Ⅶ-96 きものの知識「十日町友禅」その2
私が山形に戻ったのは昭和59年、呉服問屋の社員から呉服屋になった。今度は、呉服屋に商品を売る立場から問屋から商品を買う立場になった。
結城屋では他の呉服屋と同じく多くの問屋と取引をしていた。戦前から取引をしていた問屋もあれば最近新しく取引を始めた問屋もあった。
昭和30年から50年頃までは、呉服業界もまだまだ元気があり、心ある問屋の社員は皆独立して自分の店を持ちたいと考えている人が多かった。ある程度経験を積んで、一人あるいは友人と一緒に呉服の卸会社を興す、といったケースが多かった。
結城屋で取引をしていた問屋でも担当していた社員が独立し、その会社が結城屋に取引を申し込んでくる。元の会社では、他の社員を結城屋の担当で送り込んでくる。そして、またその担当社員が独立して取引をする、と言った事が起こり、取引問屋は増えて行った。
ある呉服問屋の社員が独立し、同じ会社から分かれた問屋が三社、もとの問屋も合わせて四社と取引をしていたこともある。まだまだ呉服は売れていた時代なので、多くの問屋と取引をしても、それぞれの会社とはある程度の取引は出来ていた。
私が山形に戻った時、取引問屋の中に十日町の問屋が一社あった。昔は無かったが、最近取引を始めたと言う。担当者は年齢が私と同じくらい。聞けば、その担当者が新規の取引をする為に売り込む姿を見て、父が京都で同じ境遇で仕事をしている私の姿を思って取引を始めたのだと言う。
その十日町の地方問屋は、社長をはじめ3~4人の会社で、彼は雇われた社員だった。年が近い事もあって親しくなり取引も続いていた。しかし、買うのは主に十日町紬や小千谷等の織物だった。絞りの着尺なども持ち込んできたが、染物の取引数は極少なかった。
数年してその商社から十日町に来てもらいたいとの依頼があった。依頼と言うほどのものではないが、一度十日町を見てもらいたいと言う。小さな商社なので、独自で展示会等できないが、染屋や織屋を見学してほしいと言う。
当時はまだ父母が健在で、私も店を空ける事も出来たので、十日町はどのような処なのか興味を持って訪ねた。
十日町は遠い。思った以上に遠かった。新潟県は山形県と隣接している。隣の県である。しかし、昔から余り行き来が無い。私が若い頃は、山形市と新潟市を結ぶ急行列車が走っていたが、それもなくなり、また現在は水害の為線路が流されてしまった鉄道「米坂線」が数年間不通となっている。
車で行くのだが、山形市から新潟県境を越すのに約一時間半。そして南に向かう。新潟県の道路は、田中角栄氏のテコ入れでどこも素晴らしい。高速道路のような一般国道が走っている。高速道路に乗れば実にスムーズである。しかし、新潟県は南北に非常に長い。新潟市までは県境から一時間半。そしてその先がこれまた長い。
新潟県は南北に長いイメージがあるが、東西の一番深い処に十日町がある。逆三角形の頂点の一番深い処である。北陸道を南に下り、長岡JCTで関越道に入り南下。小千谷を過ぎ、越後川口で降りる。一般道で更に2~30kmでようやく十日町市にたどり着く。
つづく
